| 2008/11/04 |
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【第65回】立花宗茂のこと
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立花宗茂は、戦国時代の終わりから江戸時代の初期に生きた武将である。立花家は、当時北九州を治めていた大名・大友宗麟(ドン・フランシスコ)の一族である。ある時、南の島津家が大軍を率いて北九州を侵略。他の大名は、島津家の勢いを恐れ次々と降伏したが、立花家は最期まで抗戦。その後、北から秀吉軍が攻めてきて、島津家は南方へ後退。秀吉は立花宗茂の武勇を大いに讃える。当時、宗茂はまだ19歳であった。その後秀吉より筑後柳川(福岡県柳川市)13万石を与えられ直臣大名に取り立てられる。秀吉の死後、関ヶ原の戦いで宗茂は、豊臣家の恩義を忘れず西軍に加担。同様に秀吉に育てられた加藤清正は、石田三成が嫌いで東軍に加担。他にも秀吉に可愛がられながら、三成がどうにも鼻持ちならずに、家康側に付いた武将は多い。しかし、宗茂は「義」を選んだ。関ヶ原の戦いは、東軍の大勝利に終わり、宗茂は部下を連れて九州に帰った。その途中、追っ手が来ないよう後方の橋を焼いてしまおうと部下が宗茂に進言するが、宗茂は「バカなことを言うな、橋は多くの人が利用する」と言って部下を叱りつけた。家康は立花家を肥前(佐賀)の鍋島家に討たせようとするが、加藤清正が中に入り、宗茂に降伏を勧める。清正の説得に宗茂も納得し、清正の城に居候することになった。領地は徳川家に全部没収された。その時、宗茂は城内の財産を全部、部下に分配し、無一文で清正の世話になることを選ぶ。清正は宗茂に負い目があった。宗茂以上に秀吉に可愛がられながら家康側についたことを内心恥じていた。なんとか宗茂にもう一度再起して欲しいと思い、島津家攻略の先頭に立って活躍し、家康に許しを請うようにしてはと宗茂にアドバイスする。ところが宗茂は、確かに島津家とは以前戦ったことはあるが、関ヶ原では同じ西軍だったと言って断る。己の出世欲とか、好みで判断しようとしない宗茂をますます清正は尊敬した。その後、宗茂の実力を認めていた家康から陸奥棚倉(福島県東白川郡)に1万石を与えられ大名に復帰。やがて二代将軍秀忠の時代になり、宗茂の律儀を愛した秀忠は、宗茂を故郷に戻し11万石の禄を与える。晩年は三大将軍家光からも重用されている。関ヶ原の戦いで西軍側につき、一旦没収された元の領地に、ほぼ同じ禄で戻れたのは、立花宗茂のみである。
人間にとって最も大切な「誠」を忘れ、産地偽造や汚染米、果ては禁止薬物の使用など、見つかりさえしなければなんでもして良いと考える小人(しょうじん)達に、大人(たいじん)立花宗茂の生き方を教えてあげたい。
参考資料:「自分を鍛える56の絶対ルール~武道初心集を読む」
(大道寺友山著、坂井昌彦訳、竜門冬二監修、三笠書房、ISBN-10:4837919464)
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